サラリーマンをしていた頃の話
サラリーマン時代、苦行の毎日を過ごしている、さながら奴隷のようだ。
と思っており、苦行とは?労働とは?奴隷とは?などを考えておりました。
そして、ひとつひとつ明確にしよう、と思い調べてみました。
奴隷の話をしましょう。
奴隷をざっくりと説明すると、“人間でありながら所有物として扱われる人間”のことです。
さて、この奴隷を解放する動きは、およそ1830年から起き始めます。
この奴隷解放により、大なり小なり確実に皆が奴隷になっていったと思います。
その結果、女性がより奴隷という存在になったように思えます。
そして時が流れ、女性の人権を高める動きが始まります。
その背景には、機械化による家事業務の軽減における女性の社会進出があるでしょう。
そして現在、多くの人が奴隷の要素を含むようになりました。
社会活動の末端であるほど、より奴隷(意思決定を持てない所有物的存在)となっています。
真に奴隷から解放された世界
じゃあ、次はどうなるでしょう。
おそらく、皆が“いじめてもいい奴隷”を持つようになります。
はい、ロボットです。
皆が奴隷を所有する、かつてのローマ人の貴族のようになるでしょうか?
例えば、奴隷を殺し合わせたり、仕事をさせたり、とにかく欲望を満たす、趣味を楽しみます。
しかし、ロボットを殺させあったり、ロボットを虐げたりして楽しいでしょうか?
おそらく人間の残虐な本質的には、不満を持つものが出るでしょう。
人間っぽくない、陵辱することもできない、何より意志がない。
その先は、バイオロイドでしょう。
人間と見分けがつかず、しかし人間には従順な生き物です。
その時、人類は漸く、最高の奴隷を手にするのでしょう。
まるで『アップルシード』的な世界ですが、おそらくそうなるのではないか?と思ってしまいます。
そうなると一部の人間は、自分たちが卑しい生き物であり、バイオロイドがより高潔な生き物であることを悟るでしょう。
恥を知った人類は、何を選択するのでしょうか?人は恥に弱いですからね。
これがアップルシードなら、人間を滅ぼしてバイオロイドに未来を託す、ということになるのでしょうね。
苦行とは?
さて、多くの現代人は大なり小なり奴隷であることを内包している、という事は理解しました。
では、苦行とは、労働とは何でしょうか?
そもそも苦行とは、“自らの身体を痛めつけることにより、精神を高める行為”です。
そして根本にあるのは、欲望からの解放です。
欲望とは、喜びや貪り、愛を求めること、生への執着、死の渇望などです。
特に、生への執着、死の恐怖からの解放を指す場合が多いです。
簡単に説明するならば、欲望を捨て、捨身できることにより、人は境地へ至る、という事です。
因みに、釈迦は最終的には苦行はいたずらに心身を削るものである、と位置付けています。
労働は苦行であるのか?
さて、労働=苦行である場合、人は境地へと至れるでしょうか?
至れないでしょう、労働行為には欲望が付き纏っています。
この行為の果てに捨身を習得する事は不可能であり、欲望から解き放たれる事はないでしょう。
では、そもそも現代の労働とは何でしょうか?
現代の労働を美徳とする精神は、工業化に成功したプロテスタントの精神が世界に広がったものです。
まあ、基本的に宗教において労働は祝福されるものであり、それは過去も未来においても変わらない普遍的なものであるようには思えます。
そもそも、それを善としなければ社会が成り立ちませんからね。
話が逸れましたが、つまり現行の日本の労働精神は、その明治時代に流布されたプロテスタントの精神と、それ以前の江戸時代からの労働精神である石門心学が混ざり合ったもののように思えます。
結果として、古今東西の歴史上最も過酷な労働環境が日本で生まれました。
例えば、キリスト教の安息日の概念は削げ落ちてしまっている事からも周知の通りです。
石門心学とは?
さて、石門心学とは何でしょうか?
まず、石門文学とは徳川吉宗時代に民衆の道徳意識を形成するために用いた、石田梅岩の倫理学の事です。
神道、仏教、儒教の三教合一説を基盤としており、それは主に3つを説いています。
『勤勉』、人は労働し食を得る形に生まれており、その心を持っているので、身を苦労し勤めれば心は安楽になる。
『正直』此れ正直が行われれば世間同一に和合し、四海の中兄弟の如し。要は、コンプライアンスやCSRの事です。
『倹約』、金を貯めることではなく、物の効用を尽くすこと。要は、最小で且つ多用的であれ、という事。
そして石門心学では、労働を修行と説いています。
上3つに合わせて、労働が修行であった場合、結論は言うまでもないでしょう。
修行は沢山した方がいいのですから。
我武者羅に働き、それが評価され、その結果成功した、という富国強兵や戦後復興の成功体験、これも石門心学の精神が大きいです。
そして成功体験は、これ以降の意思決定の主軸となります。
さて、要は石門心学とプロテスタントの精神を混ぜた果てが現代労働の思想であり、それは大きく変わることがないという事が分かりました。
最低の和洋折衷ですね。
現状の資本主義によって生まれた経済格差は、人は労働を提供する機械として機能させており、又格差は欲望を駆り立てます。
捨身精神のない格差上流の自己顕示欲の犠牲となる、労働すらできていない、労働が善行となっていない、哀しき奴隷が溢れています。
それが現代なのではないでしょうか?